1945
第二次世界大戦と芸術活動
1930年代のニューヨークで、市民権が無い一世の日本人芸術家は、創作活動を通して反戦を訴えていました。しかし彼らの訴えは届かず、1941年12月7日(日本時間12月8日)に日米は開戦します。日米開戦後の12月12日にニューヨーク市在住の日本人芸術家委員会の国吉康雄、保忠蔵、永井トーマス、鈴木盛、門脇ロイ、田川文治、レオ・アミノは日本の軍国主義に抗議し、アメリカに忠誠を誓う声明を出しました。
日米開戦後、ニューヨーク日本人会に携わった日系企業の関係者の多くはエリス島に送られ、日本に帰国しています。その後ニューヨークの日本人社会は、開戦直後に組織された日米民主委員会(Japanese American Committee for Democracy, JACD)が中心を担うことになりました。日米民主委員会は、反戦と反ファシズム、アメリカにおける日本人の民主主義の向上を目的に1941年12月に組織された団体です。ここには、アメリカ美術家会議で活動した国吉康雄、保忠蔵、永井トーマス、鈴木盛の他にも、門脇ロイ、八島太郎、レオ・アミノといった当地で活動する芸術家も加わり、連合国や赤十字支援のチャリティーを行ってきます。
そして国吉康雄は、1942年にOWI(Office of War Information)の依頼で反戦ポスターの制作し、日本向け短波放送でデモクラシーの尊さを訴えるスピーチをします。
保忠蔵はOSS(Office of Strategic Service)に従事し、東南アジアに向かいました。1930年代以降の保忠蔵の作品には、日本の軍国主義への非難が表れています。
いっぽう、1920年代にニューヨークで活動した清水登之は、1924年にヨーロッパを経由して日本に帰国し、日米開戦後は日本の従軍画家として戦争画を制作しました。
戦前のニューヨークで共に芸術を学び、創作した日本人芸術家たちは、日米開戦を境に、それぞれが置かれた立場で、異なる芸術活動をしていったのです。
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