1937年 9月
WPAから排斥されたアジア人の展覧会

Fig. 104. 石垣栄太郎《K.K.K.》
Fig. 105. 保忠藏《ファイヤー・タラップ》
Fig. 106. 門脇ロイ《ジョージワシントン橋》

アメリカ美術家会議では、芸術家の威信をかけた大規模な年次展覧会のほかにも、多くの企画展を開きました。その企画展の中でも、1937年9月の「ニューヨーク、中国と日本の芸術家」展と12月の「世界のデモクラシーを防衛するー中国とスペインの民衆に捧げる」展は、日本人の作品が際立つ展覧会でした。

1937年9月に開かれた「ニューヨーク、中国と日本の芸術家」展は、同年7月にWPAから解雇されたアジア系芸術家の展覧会でした。日本人芸術家は市民権が無かったものの、1935年から施行された連邦政府によるWPAの事業に従事し、生活の糧を得ていました。しかしWPAは、1937年7月にアメリカの市民権がないすべての芸術家の解雇を決めます。これにより、日本に生まれアメリカの市民権がない日本人芸術家やアジア系の芸術家はWPAからの解雇を余儀なくされました。

そこで、WPAからアジア系芸術家が解雇されたことに抗議する展覧会が、1937年の夏に三回開かれます。先ず「ピンク・スリップス・オーバー・カルチャー(Pink Slips Over Culture)」展(1937年7月19日から7月31日)、次に「500人の画家のうち4人がW.P.A.から解雇された(4 out of 500 Artists dismissed from the W.P.A. )」展(1937年8月30日から9月11日)、そしてアメリカ美術家会議とアーティスト・ユニオン、WPAの市民委員会の後援で「ニューヨーク、中国と日本の芸術家(Paintings by New York Chinese-Japanese Artists)」展が(1937年9月12日から9月26日)がACAギャラリーで開かれました。

このうち、第1回目の「ピンク・スリップス・オーバー・カルチャー」展には石垣栄太郎、保忠蔵、山崎近道が出品しました。そして第3回目の「ニューヨーク、中国と日本の芸術家」展には、雨宮要生、石垣家太郎、門脇ロイ、国吉康雄、宮本要、永井トーマス、中溝不二、清水清、鈴木盛、保忠蔵、寺ジョージ、臼井文平、山崎近道、田川文治が参加。

日本と中国の芸術家による作品合計18名42点が展示されました。


同展覧会についてハリー・ゴットリーブ(Harry Gottlieb)の批評

「市民権がないためにW.P.A.から解雇されたにアジア系の画家は、私たちの文化的生活に重要な貢献をした。彼らはアメリカの美術館で作品を展示し、アメリカ人画家の組織のメンバーであり、アメリカ人として受け入れられてきた。この解雇は彼らの才能を奪っただけではなく、芸術家としての本質も否定するものである」

(American Contemporary Art Gallery, Paintings by New York Chinese Japanese Artists, 1937, in ACA Gallery, 61 and 63, East 57th Street. (Exhibition catalog, New York: A.C.A. Gallery, 1937).

『ニューヨーク・サン』 による記事

この展覧会に東洋風な要素が無い点が皮肉な特徴であり、西洋の影響やテーマは明らかに共産主義の傾向の影響に至るまで隈なく表れている。素晴らしいシュールレアリストの鈴木盛の作品や、兵士を軽々と投げるバスクの女を描いた石垣栄太郎の作品にも西洋の影響が見られる。彼らは現代の社会問題を現代風に描いている。また保忠蔵は最もアメリカナイズされた画家で、写実的な《ジャージー・ステーション(Jersey Station)》と《ファイヤー・タラップ》がある。そして門脇ロイの《ジョージ・ワシントン・ブリッジ》は橋に向う道路の曲線が繰り返されている点が、リズミカルな効果になっており、独得の構図である。」

(Melville Upton, “New Light on Eastman Johnson: Early Work at Frazier Gallery Other Local Exhibitions of Interest,” 『ニューヨーク・サン』, Sep.18, 1937)

1937年9月に開かれた「ニューヨーク、中国と日本の芸術家」展は、アメリカの市民権が無いアジア系芸術家がいかにアメリカ社会に同化(アメリカナイズ)しているのかを提示する機会となったのでしょう。また、この展覧会は日中戦争の開戦と時期が重なったことから、日本人芸術家には、市民権は無いもののアメリカで活動する芸術家として、自身のアイデンティティを再確認し、反戦思想に傾倒する一つの契機になったものと考えられます。