1936年
紐育新報社後援の邦人美術展覧会

Fig. 77. 中川菊太《壊れたロマンス》

紐育新報後援の邦人美術展覧会は、翌年の1936年にも開かれました。作品の募集広告には、下記のように展覧会の趣旨について書かれています。

「昨年私ども美術家団体を中心に一般同胞諸君の作品を蒐めて所謂『同胞美術展』を開催致したるところ各方面に多大の反響を呼び起し、邦人文化の紹介に尠からざる効果ありしことは未だ諸君の記憶に新たなるものと思ひます。今年度は更らにその趣旨を徹底する為めに一層規模を拡大して諸君の自信ある作品を募集致す次第であります」

(「邦人美術展 作品募集」『紐育新報』1936年3月21日 )

1936年4月20日から5月2日までACAギャラリーで開催されたこの展覧会には、雨宮要生、青木実、土井勇、ポール・ヒューン、井上豊治、井上夫人、石垣栄太郎、岩崎ケンジ、門脇ロイ、加藤麟之助、小室デイヴィット、国吉康雄、草信茂礼、宮本要、永井トーマス、中山ミツ、中溝不二、中野ケーネス、野路オリバー、野村浩達、澤田美喜、清水清、鈴木盛、田川文治、保忠蔵、臼井文平、亘理武夫、山崎近道、矢島徳助の44点の出品がありました。

残念なことに、1936年の展覧会に出品された作品はそのほとんどが所在不明です。しかし新聞に掲載された、いくつか批評からは同展覧会の様相が浮かび上がってきます。
 
  『タイムズ』の批評

「出品者の多くが若手で、言うまでもなくすっかりアメリカン・シーンの影響を受けたものもあれば、フランスのモダニズムを参考にしたものもあります。しかし殆んどの作品には東洋的なものを残しており、それらの作品は非常に興味深いものです。」「野路オリバーの漁船を描いた水彩画は日本のカラープリントに近づいており、野村の山の眺望を描いたワッシュ・ドローイングは東洋風の屏風を思わせる。」

(Howard Devree, “Brief Comment on More Than a Score of Recently Opened Shows-Other News”, New York Times, April 26, 1936)


『紐育新報』に掲載された、石垣綾子による美術批評

「昨年の邦人展でも同じやうに感じたのであるが、現実を深く追求する真面目な態度が絵のすみずみににじみ出していて、少しもごまかしがないと云ふことだ人の心の奥底に触れるものは偽りの指先き技巧ではなく、全身で押して行く実直な努力であることを深く思はせられた。昨年の出品者数に比較すると今年はずっと殖へて三十人を数へ、殊に目立つのは若い新顔がずらりと並んで出品されていることである。作品のサイズは押しなべて昨年度より小さいけれど、会場を一見するとハタと心を惹きつけられる、何か底力のある気魄に気づかれるであらう。全体に新らしい生命が流れ、ピチピチとはち切れる若さに充ちている。」

「青木実氏の田舎の摩天楼は、樹木、建物の交錯を氏独自の色彩と筆致で対照的に描き出し、風景も亦まとまった構図であるペテルヘルム鋼鉄会社の建築技師として活躍する氏の余技としては勿体ない。」

「井上豊次氏は申すまでもなく商務官のお役人様、俗務にたづさわる氏が、野辺に咲く一輪の可憐な花に浮世の煩瑣を忘れてものされたのが、清楚な白百合の花□である。丹念にリアリズムで押してゆかれる所は決して泥縄式どころではなく精魂のこもった小品である。色彩もずっと殺してよく使ひこなしであり、奇をねらふところのない真剣さと落ちつきを見せている。」

「中野ケネース氏は日本画的な柔に感じて、橋下を流れゆく渡舟の哀愁と、水面に落ちる光と影を巧みに拾っている。落ちついた佳作である。」

「野地オリヴァー氏の魚船は、散在する魚舟の群と水面に引く美しい影の交錯に澄んだリズムをたたえ、日本画の繊細な感じを出している。」

「野村浩達氏は、お得意の南画にリンとした墨痕のすがすがしい気品をたたえ、色彩画に新奇軸を示している。」

 

「澤田夫人は、さすが本場のパリー仕込みだけあって、筆の運びがかれている。どちらかと云へば『静物』よりも『女の横顔』の方がきどった所がなくて佳い。」 

(石垣綾子「邦人美術展」『紐育新報』1936年4月25日、4月29日、5月2日)

1936年の展覧会では、日本に生まれアメリカで学んだ一世の芸術家だけではなく、若手芸術家やアマチュアによる西洋画の技法を駆使した作品や東洋的な雰囲気を残した作品が際立っていたのでしょう。1930年代の二度開催された紐育新報後援の邦人美術展覧会は、当地に暮らす様々な日本人の芸術作品を通して東西文化の融合を伝えるという展覧会の趣旨は果たしたのでしょう。しかし、これ以降、紐育新報社後援のこのような展覧会は開かれませんでした。その背景には、世界恐慌による芸術家の失業や労働運動の高まり、日本とアジア諸国を巡る情勢悪化を懸念する日本人社会の動向があったと考えられます。