1930s
紐育新報社主催による
邦人美術展覧会

Fig. 70. 石垣栄太郎《失業者》
Fig. 71. 永井トーマス《室内》
Fig. 72. 国吉康雄《テーブルの上の果物》
Fig. 74. 角南壮一《ヘイ・スタック》
Fig. 75. 臼井文平《ウッドストックの国吉家》
Fig. 76. 臼井文平《国吉の居間から見た風景》
Fig. 77. 中川菊太《壊れたロマンス》
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好景気の時代は、1929年のニューヨーク証券取引所の株価大暴落で終わりを告げました。アメリカに端を発した大不況は世界中に広がり、1930年代は世界恐慌となります。

同じ頃、日本は中国北東部への侵入を進めていました。そして1931年には満州事変が起こり、1933年に国際連盟から脱退します。その後、日本は国際社会からは孤立を深めていきます。しかし、日本にとってアメリカは生糸を中心とした貿易相手国として重要な存在であり、日米関係の改善は大きな課題でした。そこで日本は1933年に齋藤博を駐米大使に任命し、日米親善と文化外交を進めていきます。齋藤博は大使就任後、ラジオ演説で日米戦争論を否定し、各地で日米親善の重要性を説いていきました。また当時のニューヨーク総領事だった澤田廉三も東西文化の協調と日米親善を説き、日米関係の改善に尽力しました。

日本と諸外国との関係悪化が懸念される中、1935年2月10日から3月2日まで、紐育新報後援で邦人美術展覧会がACAギャラリーで開かれます。

ここには、雨宮要生、青木実、土井勇、原誠、井上豊治、井上夫人、石垣栄太郎、門脇ロイ、加藤麟之助)、小室デイヴィト、国吉康雄、宮本要、永井トーマス、中川菊太、中溝不二、野田英夫、イサム・ノグチ、野村浩達、澤田美喜、清水清、角南壮一、鈴木盛、鈴木彌七、保忠蔵、臼井文平、亘理武夫、山崎近道の52点の作品が展示されました。


『紐育新報』には次のような広告も掲載されています。

「紐育に於ける有名無名の日本人美術家の作品殆んど全部を一堂に集め得たことは在留同胞文化発展の途上に於ける一大金字塔でありますが、之れ同胞諸氏の多大なる御同情と御後援に依るものであることは申すまでもありません。同胞諸氏の御鑑賞を偏へに希望する次第であります」

(「邦人美術展覧会」『紐育新報』1935年2月9日)

この展覧会は、日本に生まれアメリカで学んだ一世の他にも日系二世の芸術家、そしてニューヨーク在留の素人の作品も展示されました。さらに展覧会の期間中には日米の有識者約70名を招待したレセプションも開かれました。当夜は国吉康雄が司会を務め、彫刻家ウイリアム・ゾラック(William Zorach )とホイットニー美術館館長が講演をしました。またコロンビア大学の角田柳作の『異国情緒と回顧趣味』と題した講演も予定していましたが、角田柳作が欠席だったため、原稿が代読されました。東西文化の融合をテーマにした講演や登壇者から推察すると、このレセプションは英語話者を対象に、東西文化の融合をテーマした催しだったと考えられます。

会場となったACAギャラリーは、ジョン・リード・クラブやリベラルな思想をもつ芸術家の展覧会の会場として有名でした。経営者ハーマン・バロンは、この展覧会の開催によりギャラリーの評価が上ったと述べており、日本人の作品を一堂に展示した本展覧会はギャラリーに於いても特異な企画だったといえるでしょう。

日米の有識者を招いたレセプションの後、各英字新聞は展覧会を次のように伝えています。


ニューヨーク・ポストの批評

「東洋的なデザインは、率直なリアリズムや西洋的感覚だけでなく展示を通して明らかである。最も興味深い作品は、東洋と西洋の融合で、伝統的な小気味よいタッチ現代のモダニズムの特徴を修正している。」

「青木実の《ハミルトン通り》は線のパターンに書道の手法を用いられており、中溝不二の《ボーイ・コーリング》は東洋風なそぶりの鮮やかさと雄弁さがある。門脇ロイの《ファンタンゲーム》は愛嬌のあるタームで生き生きと東洋から西洋画に移植されている。」 

 (Exhibit by Japanese Artists in New York” New York Post, Feb. 16, 1935)


ニューヨーク・サンによる批評

「展示作品には奇妙な混合があり、出品者の多くは西洋の技法で描いているが、時折ネイティヴの特徴がややぎこちなく表記されている。」

「最も気軽のハンディーキャップを払いのける一人に小室デイヴィッドがいる。彼の《肖像》と《静物》は西57丁目からであり、澤田美喜の《静物》と、特に《肖像》は習得したパリのガウンと同じくらい上品に技法を借用したものである。その対極にあるのが、宮本要の《早朝》と《風景》、特に後者はこれがキャンバスならば日本の飾り付けをした抽象的作品なであり、展示の中で最も興味深い作品の一つである。」   

(“East Meets West,” New York Sun, Feb. 16, 1935)

1935年に紐育新報社の後援で開かれた邦人美術展覧会は、既に著名な一世の芸術家だけではなく、日系二世やアマチュアの作品も展示されました。そこには、ニューヨークで様々な立場にある日本人が制作した芸術作品を展示することで、彼らがいかに日本とアメリカの文化を享受し、また融合させているかを示し、日本とアメリカの文化交流を図る意図があったのです。