古田土雅堂
1920年代前半の独立美術家協会やサロンズ・オブ・アメリカで注目された日本人芸術家に、古田土雅堂と清水登之がいます。
1918年にヨーロッパでは約4年におよんだ第一次世界大戦がようやく終結しました。同時期の美術界では、未来派(フューチュリズム)や立体派(キュビズム)といったモダニズムがおりました。フューチュリズムは、1909年のフィガロ紙に掲載されたマリネッティの「未来派宣言」に始まり、機械美やスピード感、ダイナミズを賛美した表現運動で、代表的作家にボッチョーニ、セビリーニが挙げられます。またキュビズムはあらゆる対象を幾何学的な直線や曲線で表現し、物体を二次元の画面に再構成しようとしたもので、パブロ・ピカソやジョージ・ブラックが有名です。
古田土雅堂の作品にも、このような技法が見られます。古田土雅堂は、東京美術学校で日本画を学んだ後、渡米しました。紐育日本美術協会の展覧会には日本を題材にした西洋画を出品していました。しかし、独立美術家協会とサロンズ・オブ・アメリカでは未来派の作品を発表しています。古田土雅堂の作品は、様々な人が暮らす都市の生活を臨場感あふれるタッチの未来派の技法を駆使している点で当時の美術界に評価されたのです。
「色調の進歩は著しく見ゆるか、雑踏中に活躍する男の帽子があまりに写実的であるやうに思はるる。」
(渡辺寅次郎「画彫会会員側面観」『日本人』99号1923年2月25日)
『日米時報』は、巧妙な技法が称しました。
「古田士雅堂氏の作品は常に都会生活の雑景を描写するに妙を得ておる「ブラック、パーティー」は例の技巧と色調とを以てよく、町内こぞって倶に享楽しておる団楽の状態が「キャンバス」の外に活躍しておる」
(モーニングサイド蔭士「独立美術展覧会を観て」『日米時報』1923年3月17日)