1922
画彫会の展覧会

Fig. 5. 画彫会集合写真
画彫会の展覧会の会場で撮影された集合写真です。 前列中央に古田土雅堂、前列の右端で横を向いて写っているのは国吉康雄です。そして後列一番左端に石垣栄太郎、二列目左から2人目が犬飼恭平、後列左から4人目が清水登之です。

紐育日本美術協会の芸術家は、西洋画から応用美術まで多岐に渡っていました。それは、当時の日本人芸術家の多くが当地の日系企業の支援により創作活動をしていたことが背景にあるでしょう。この後、紐育日本美術協会は画家や彫刻家を中心に新しく組織された日本人画会に集約されました。そして1921年に日本人画会は画彫会と改称します。

画彫会の後援者には、地主延之助(森村ブラザース支配人)、白江信三(山中商会紐育支店支店長代理)、児玉嘉四郎(太洋貿易会社紐育支店支配人)、堤彦一(高田商会紐育支店)、熊崎恭(総領事)、田島繁二(三井物産紐育支店支配人代理)、田村羊三(南満州鉄道出張所長)、南 治之助(神戸鈴木商店紐育支店支配人)、高田孝雄(高田岩井商会紐育支店長)、西 巖(商務官)の名前が挙げられています。そのため同会も紐育日本美術協会と同様、当地の日系企業の支援によるものだったと考えられます。

そして画彫会は、1922年11月1日から21日まで、シヴィック・クラブで展覧会を開催しています。ここには安藤邦衛、原誠、稲葉正太郎、石垣栄太郎、古田土雅堂、国吉康雄、三鬼良吉、清水登之、寺徹圓、臼井文平、渡辺寅次郎、平本正次、川村吾蔵の絵画と彫刻の54点が展示されました。

Fig. 6. 画室の石垣栄太郎
「若き日本人画家、アメリカ人男女に奇妙なコントラストを見出す」(『イブニング・テレグラム』1922年11月4日付)。

この展覧会に石垣栄太郎は、《死の勝利》《神秘的な浜辺》《薄明の刻》《果物》の4点を出品しましたが、これらは現存確認ができていないため詳細は不明です。

『イブニング・テレグラム』には、画室で制作する石垣栄太郎の姿と、本展覧会に出品した《果物》だと思しき作品が写っています。

また石垣栄太郎は、テレグラムの取材に対し、このように答えています。

「シヴィク・クラブで開かれている展覧会の中で《死の勝利》が一番好きな作品だ。友人は、私がこのような陰鬱な画題を選んでもとても快活に見えるといった。私はダヌツィオの小説を読み終えた直後にこれを描いた。しかし私はダヌツィオに見られるような気分を表現しない。これは浜辺に横たわる女性の亡骸と彼女に覆いかぶさって泣く男を画いた」  

石垣は『紐育新報』このように書いています。

「《死の勝利》は5、6年前の作品だ。私がワイルドのデカダン哲学の感化を受けボードレールの悪魔主義に感染していた時分の作品なので、其後思想に激変を来して居る今の自分から見て余程遠縁のものだ」と、石垣栄太郎が言及しています。(石垣栄太郎「玉石同架」『紐育新報』1922年11月15日)

(石垣栄太郎「玉石同架」『紐育新報』1922年11月15日) 


これらのことから、《死の勝利》は石垣栄太郎が1910年代に傾倒した世紀末芸術から着想を得た作品だったと考えられます。