変革への呼びかけ
1872年、日本政府は「学制」を発布し、すべての子どもに初等教育を受けさせることを義務づけました。その後、中等教育が始まり、大学制度も徐々に充実していきました。しかし、これらの発展は、男女が等しく享受できた訳ではありません。
当初、女子の初等教育への出席率は男子に比べてかなり低く、発布後何十年もの間、学校そのものが男女別々でした。また、一般的に、女子のための中等学校は、限られた目的しか持たず、教師(小学校レベル)、家政婦、事務員などの職業に就くための準備にとどまりました。20世紀に入るまで、女性が大学レベルの教育を受ける機会はほとんどありませんでした。
この間、クエーカーの宣教師や教師、そして日本初のクエーカーたちが、自らの学校を設立し、女性のための機会拡大を主張し始めたのです。
これらの人々の多くはニューヨークのコミュニティーと密接な関係を持ち、第二次世界大戦後、女性の教育向上に貢献しました。
新渡戸は、米国留学中にクエーカーの集会に参加するようになった理由について、「彼らの素朴さと真剣さがとても好きだからです」と答えています。1885年、新渡戸はクエーカーに入信し、生涯にわたり教徒であり続け、フィラデルフィアのクエーカー・コミュニティを通じて妻のメリー・エルキントンに出会いました。メリーだけでなく、エルキントン一家は日本、特に19世紀後半からクエーカーのネットワークを通じて多くの日本人留学生を支援し続けました。
新渡戸とメリーは、クエーカー・コミュニティーから奨学金を受けた河井道や星野愛といった著名人を含む、多くの日本人女性学生の米国留学を支援しました。また、1887年に東京に設立された普連土女学校(現在の普連土学園。日本初のクエーカー教徒の女子校)の設立を助言し、また、津田梅子の津田塾大学(資金の殆どはクエーカーが寄付)の設立も支援しました。
「現在、成瀬氏のいわゆる『女子大学』(日本政府がまだ正式な大学の地位を与えていなかったため)、津田氏の英語学校、宣教師が管理する2~3の設備の整った神学校など、優れた評判の民間教育機関があり、政府が自らのイニシアティブと責任で実現できなかったような仕事をしているのです。」。
新渡戸は、この問題への取り組みを自ら直接支援しなければならないと考えました。また、新渡戸が言及した教育機関のほぼすべてが、海外のキリスト教団体から大きな支援を受けていたことから、取り組みを行うに当たり、彼の信仰が中心的な役割を果たしたことは容易に理解できます。新渡戸の講演は、後にニューヨークのジャパン・ソサエティーから全シリーズが出版され、彼の主張が国際的に周知されるようになりました。
残念ながら、新渡戸は、戦後における日本の教育制度に起こった女子の一般大学への入学、既存の女子専門学校の国公立大学への認定など、数々の劇的な改革を目の当たりにすることはありませんでした。しかし、彼は、クエーカーの信仰を持ちつつ、ニューヨークや世界各地に設置したネットワークを活用し、教育が普及する土台を築き、両国における次世代につながる運動に貢献したのです。そして実際、この理念を引き継ぐこととなった多くの人々の内の一人が、同じクエーカーのルーツを持つ、ヒュー・ボートンでした。
ヒュー・ボートン
知っている?
ボートンは、1872年に制定された「教育法」のような初期の学校制度に関する 取り組み についての問題点を指摘しました。
「この制度は、紙に記載されるとおり、素晴らしいものであり、あらゆる階級の少年少女が初等教育を受けるべきで、また、より才能のある者には高度な訓練が与えられるべしと規定されています。しかし、実際には、新たな法律の履行においてなすべきことは山積みであり、1890年時点で、対象者の半数しか初等教育を受けられていません。」
これは男子に比べ女子の方がより該当していたため、ボートンは女性の教育機会を増やすよう提言し、新渡戸とともに、日本における女性の平等な権利の向上を求める最も著名なクエーカー知識人の一人となりました。