変革への呼びかけ

1872年、日本政府は「学制」を発布し、すべての子どもに初等教育を受けさせることを義務づけました。その後、中等教育が始まり、大学制度も徐々に充実していきました。しかし、これらの発展は、男女が等しく享受できた訳ではありません。

当初、女子の初等教育への出席率は男子に比べてかなり低く、発布後何十年もの間、学校そのものが男女別々でした。また、一般的に、女子のための中等学校は、限られた目的しか持たず、教師(小学校レベル)、家政婦、事務員などの職業に就くための準備にとどまりました。20世紀に入るまで、女性が大学レベルの教育を受ける機会はほとんどありませんでした。

この間、クエーカーの宣教師や教師、そして日本初のクエーカーたちが、自らの学校を設立し、女性のための機会拡大を主張し始めたのです。

これらの人々の多くはニューヨークのコミュニティーと密接な関係を持ち、第二次世界大戦後、女性の教育向上に貢献しました。

新渡戸稲造

新渡戸稲造 とメリー・エルキントン、1932年

新渡戸稲造

新渡戸稲造は、日本で最も有名なクエーカーであり、日本文化や国際秩序に関する著作により欧米で広く知られるようになった知識人でした。大学教授、植民地であった台湾総督府行政官など、国際連盟事務次長など、波瀾万丈の人生を歩みました。しかし、新渡戸の最大の歴史的功績の一つは、日本や世界の女性が高等教育を受ける機会を拡大するための長期的な取り組みでした。新渡戸は、その人脈と知名度を活かし、母国での教育機会に恵まれない多くの日本人女性が米国などで教育を受けられるように支援し、ニューヨークをはじめ世界各地で女性教育の重要性を説きました。

新渡戸は、米国留学中にクエーカーの集会に参加するようになった理由について、「彼らの素朴さと真剣さがとても好きだからです」と答えています。1885年、新渡戸はクエーカーに入信し、生涯にわたり教徒であり続け、フィラデルフィアのクエーカー・コミュニティを通じて妻のメリー・エルキントンに出会いました。メリーだけでなく、エルキントン一家は日本、特に19世紀後半からクエーカーのネットワークを通じて多くの日本人留学生を支援し続けました。

新渡戸とメリーは、クエーカー・コミュニティーから奨学金を受けた河井道や星野愛といった著名人を含む、多くの日本人女性学生の米国留学を支援しました。また、1887年に東京に設立された普連土女学校(現在の普連土学園。日本初のクエーカー教徒の女子校)の設立を助言し、また、津田梅子の津田塾大学(資金の殆どはクエーカーが寄付)の設立も支援しました。

この時期、新渡戸は、母国での女性教育の機会不足に危機感を抱いていました。1911年、ニューヨークでカーネギー国際平和財団の初代交換教授の一人に任命された新渡戸は、これまでで最も明確に問題を提起する機会を与えられ、コロンビア大学で一連の講義を行い、次のように述べました。

国際連盟知的協力委員会(ICIC)のセッションでの新渡戸(右)、他のメンバーにはアルベルト・アインシュタイン(左から4人目)などがいた, 1924-1927年

「現在、成瀬氏のいわゆる『女子大学』(日本政府がまだ正式な大学の地位を与えていなかったため)、津田氏の英語学校、宣教師が管理する2~3の設備の整った神学校など、優れた評判の民間教育機関があり、政府が自らのイニシアティブと責任で実現できなかったような仕事をしているのです。」。

新渡戸は、この問題への取り組みを自ら直接支援しなければならないと考えました。また、新渡戸が言及した教育機関のほぼすべてが、海外のキリスト教団体から大きな支援を受けていたことから、取り組みを行うに当たり、彼の信仰が中心的な役割を果たしたことは容易に理解できます。新渡戸の講演は、後にニューヨークのジャパン・ソサエティーから全シリーズが出版され、彼の主張が国際的に周知されるようになりました。

残念ながら、新渡戸は、戦後における日本の教育制度に起こった女子の一般大学への入学、既存の女子専門学校の国公立大学への認定など、数々の劇的な改革を目の当たりにすることはありませんでした。しかし、彼は、クエーカーの信仰を持ちつつ、ニューヨークや世界各地に設置したネットワークを活用し、教育が普及する土台を築き、両国における次世代につながる運動に貢献したのです。そして実際、この理念を引き継ぐこととなった多くの人々の内の一人が、同じクエーカーのルーツを持つ、ヒュー・ボートンでした。

ヒュー・ボートン

ヒュー・ボートン

ヒュー・ボートンは、コロンビア大学の教授かつクエーカーであり、政府や学界での長い経歴において、様々な立場で日本に関する業務に取り組みました。1930年代、「米国フレンズ奉仕団」の宣教師として初めて日本を訪れた際、ボートンは澤田節蔵在ニューヨーク日本総領事(大使)から、日本に到着したら「よく聞き、よく学ぶ」ように助言を受け、彼はその言葉を胸に刻み、第二次世界大戦終戦前後の対日政策の形成に寄与した最も影響力のある米国人学者の一人となりました。

知っている?

ボートンは、裕仁天皇陛下を戦争犯罪で訴追することに反対した主要人物の一人であり、彼の貢献が米国の指導者たちに皇室制度をそのまま残すことを説得する上での決め手となったとも言われています。

1945年に日本が降伏する前に、米国務省の職員として、日本の教育制度の改革を提案する複数の覚書の作成に取り組み、当時、米国政府は、日本の学校における民族主義的な傾向を排除することに腐心しており、ボートンの仕事の多くはこの問題に焦点が当てられました。また、彼は女性運動に対する歴史的な抵抗を含め、日本社会におけるその他の問題にも言及しました。

ジョージ・サンソム、南原繁、ヒュー・ボートン教授, 1949年

ヒュー・ボートン博士を出迎える椎名悦三郎外務大臣(右)、1966年

「1871年に訪米した岩倉使節団に同行するために選ばれた若い女性たちの外国留学を支援するなどのフェミニズム運動は、日本社会における女性の低い地位にほとんど影響を与えませんでした。1889年の憲法と新たな法令は、この不平等な状態を追認しました。」

ボートンは、1872年に制定された「教育法」のような初期の学校制度に関する 取り組み についての問題点を指摘しました。

「この制度は、紙に記載されるとおり、素晴らしいものであり、あらゆる階級の少年少女が初等教育を受けるべきで、また、より才能のある者には高度な訓練が与えられるべしと規定されています。しかし、実際には、新たな法律の履行においてなすべきことは山積みであり、1890年時点で、対象者の半数しか初等教育を受けられていません。」

これは男子に比べ女子の方がより該当していたため、ボートンは女性の教育機会を増やすよう提言し、新渡戸とともに、日本における女性の平等な権利の向上を求める最も著名なクエーカー知識人の一人となりました。

CULCON IIIの開会式で挨拶するヒュー・ボートン博士, 1966年

1940年代後半、女性の初等・高等教育へのアクセス改善が法制化されるまで、ボートンは主に他の業務に取り組んでいましたが、同じクエーカーで日本専門家のゴードン・ボールズや東京帝国大学総長の南原繁など、彼の親しい友人や同僚は、直接ボートンの啓発を受け、これら施策の最終的な承認に参加しました。新渡戸とは異なり、ボートンは幸いにも生前、自らの提言が実現するのを目の当たりにすることができたのです。

国務省での勤務を終えた後も、ボートンは著名な米国人日本研究者の一人として、ニューヨークに戻り、コロンビア大学東アジア研究所(後にウェザーヘッド東アジア研究所に改名)の2代目所長や、自身の母校であるフィラデルフィア郊外のクエーカー学校ハバフォード大学の学長を務めました。
テレビの前で話すヒュー・ボートン博士, 1966年

ケネディ大統領とヒュー・ボートン, 1963年

ボートンは、クエーカーの信仰に従い、第二次世界大戦中に戦闘員として参加するのではなく、米国の国務省において、戦後の日本における平和構築のための業務に参加しました。彼の功績はクエーカーとニューヨークに密接に関連しており、日本における女性の地位向上にも継続的に貢献しました。