戦後の政策
第二次世界大戦後、日本社会は政治、経済、産業、そして教育において様々な変化を遂げ、変化の多くは、米国の占領軍と連合国軍最高司令官総司令部(SCAP)による監督を受けれていました。しかし、占領軍と日本との関係は、単に征服者と被征服者という関係ではなく、SCAPと日本国民は、占領軍の枠組みの中で、自分たちの考えを実現するための数少ない機会を見つけては、大いに協力していたのです。
河井道と星野愛は、クエーカーやニューヨークとつながりのある教育者で、占領軍による取り組みにより、女性の地位と平等な教育へのアクセスを強固なものにすることに成功しました。また、いずれも学者かつ日本専門家であるボートンやボウルズといったクエーカーの指導を受けたニューヨーク出身の米国人教育者たちも、河井や星野ら日本の教育者たちと手を携えて、この改革に重要な役割を果たしたのでした。
平和使節として渡米した河井道, 1941, 恵泉女学園大学
「シルバーベイでは、10代後半の米国人少女たちの明るく幸せな乙女心を垣間見ることができました。この時期に日本の少女たちは人生から取り残されているようなものですが、10代前半はのんびりと幸せな時間を過ごしていても、突然、女としての自覚が芽生えてくるのです。」(「私の提灯」91-92頁)
河井 は、キャンプに参加した他の少女たちが見た様々な未来に啓発され、日本の女性の将来の機会を広げるために自分がどう貢献できるかについて考え始めました。この体験の後、YWCAは河井の人生にとって不可欠なものとなりました。
関東大震災後の新キャンパス建設や第二次世界大戦時の不安定な期間を含め、星野は激動の時代においても大学を統率しました。また、戦前から戦後にかけて、女子教育は不安定な状況に置かれ、その将来を見据えた多くの必要な改革を進めることができませんでした。しかし、ニューヨークで受けた高度な訓練と、米国東海岸のクエーカーや学界とのつながりもあり、1946年の米国教育使節団との関係を通じ、戦後、彼女のアイデアの数々が実践される機会を得ました。
1946年に派遣された米国教育使節団
1946年に派遣された米国教育使節団は、著名な3人のクエーカー、つまり、コロンビア大学教授で国務省職員となったヒュー・ボートン、日本生まれの人類学者でシラキュース大学教授のゴードン・ボウルズ、日本の文部大臣で新渡戸稲造の弟子かつ元ニューヨーク日本文化協会理事の前田多門を含む多くの人々によって段階的に提案されました。同使節団は、日本の教育の現状を評価しSCAPに改革を勧告するために多くの米国の学識者を派遣しました。
George D. Stoddard
John N. Andrews
Harold Benjamin
Gordon T. Bowles
Leon Carnovsky
Wilson Compton
George S. Counts
Roy J. Deferrari
George W. Diemer
Frank N. Freeman
Kermit Eby
Virignia C. Gildersleeve
Willard E. Givens
Ernest R. Hilgard
Frederick G. Hochwalt
Mildred McAfee Horton
Charles S. Johnson
Isaac L. Kandel
E. B. Norton
Charles H. McCloy
T. V. Smith
David Harrison Stevens
Paul P. Stewart
Alexander J. Stoddard
W. Clark Trow
Pearl A. Wanamaker
Emily Woodward
ヒュー・ボートンの親友である東京帝国大学総長の南原繁が中心となり、「日本教育者委員会」が結成されました。著名な女性教師として河井道や星野愛が委員に名を連ねていたほか、新渡戸稲造の門下生も多く、日本側にもクエーカーの強い影響がありました。
ボウルズとボートンは、使節団が日本に派遣される前の戦前から、後の国務省の政策の基礎となる提案書を作成し、使節団の最終報告書の基礎の一部となったように、日本の学校制度改革について試行錯誤していました。
しかし、幾つかの項目については使節団の中でも大きな意見の相違があり、例えば、ボウルズは漢字教育の廃止に反対した一人でした。それらの問題にもかかわらず、学者たちは、使節団の報告書と同報告書に基づくその後の政策の多くは、短期間の訪問で急いで作成された内容以上の影響をもたらしたと指摘しています。実際、報告書の多くの内容は、ボートンとボウルズが以前に作業していたものに加え、何年も前から独自の提案を行っていた日本人顧問から出されたものであり、ボウルズは、使節団の報告書の6割は日本側から提出されたものであると推定しています。
河井と星野は、この改革の機会に、全国的に女子教育を推進した人物です。1945年末からSCAPに参加し、既に占領軍の男女別学政策を示す初期の文書の一つである「新女性教育改革総合計画 」の起草に尽力していました。教育使節団の到着後、二人はこの作業を継続することができ、最終的な方針は施設団に委ねられましたが、報告書の多くに二人の作業の影響を読み取ることができます。
“[Junior high schools] should become coeducational, as rapidly as conditions warrant, the principle involved being as applicable at this level as in the primary schools.”
“Beyond the [junior high schools], we recommend the establishment of a three year [high school], free from tuition fees and open to all who desire to attend. Here again, coeducation would make possible many financial savings and would help to establish equality between the sexes…These schools should include academic courses leading to entrance to colleges and universities, as well as courses in home-making, agriculture, and trade and industrial education.”
“This obligation to assist the brightest students is greatly increased by the recently declared position on the rights of women. This bold and admirable move has settled the issue of equal rights in principle; it now is necessary to confirm the principle in action. In order that equality be generally true in fact, steps are necessary to insure to girls in earlier years an education as sound and thorough as that of boys. Then a good foundation for training in preparatory schools will place them on really equal terms with men for admission to the best universities.”
“Freedom of access to higher institutions should be provided immediately for all women now prepared for advanced study; steps should be taken also to improve the earlier training of women.”
小学校の男女共学化、一般大学への女子入学、女子高等教育機関の大学としての認可など、使節団の提言の多くは、その後公式の政策になりました。
これらの画期的な成果は、日本における女性の平等な教育という共通のビジョンを持った、ニューヨークやクエーカー、又はその双方を代表する日米の教育者たちの共同作業によってもたらされました。