栃木県出身。1880年に茂木町の葉タバコ農家に生まれる。1897年に下野市立中学校を卒業し、東京美術学校(現在の東京芸術大学)の日本画科に入学。同校を卒業後、1906年にアメリカに渡る。シカゴで働きながら絵を学び、高峰譲吉の別荘「松楓殿」の室内装飾を手掛ける。その後ニューヨークに移り、森村ブラザース(現在のノリタケ・カンパニー)の意匠部で陶磁器の絵付けの仕事に従事する傍ら絵画制作をする。
1919年から1924年の独立美術家協会展、1922年、1923年のサロンズ・オブ・アメリカ、1917年、1918年の紐育日本美術協会の展覧会、1922年の画彫会の展覧会に出品。1920年の日本人画会成立の際に発起人となる。1924年に日本に帰国する際、前年に起こった関東大震災の影響で木材の調達が困難だと聞いたため、アメリカから組み立て式の家を購入して持ち帰った。
『紐育新報』には「正木美術学校校長の故高峰譲吉氏に対する添書を携えて渡米し博士の山荘装飾事業に従事したる後博士の紹介によりて森村に入社せる」(『紐育新報』1924年4月9日)とあることから、ニューヨークでの活動は高峰譲吉の支援があったと考えられる。
参考:杉村浩哉「古田土雅堂について」『美術運動史研究会ニュース』第87号 (2007)、吉田千鶴子「古田土雅堂・アメリカの日本人」『美術運動史研究会ニュース』第88号(2007)、『紐育新報』、『日米時報』
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