大山捨松は日本初の女子留学生の一人としてアメリカへ渡り、後に津田梅子と共に津田塾大学の設立や女子教育にも携わった人物。大学の学位を授かった最初の日本女性でもある。 1860年、大山捨松は福島県会津藩家老の娘、山川さきとして生まれた。まだ10歳にも満たないうちに戊辰戦争を体験し、その後、戦後の苦しい生活から捨松は里子としてフランス人一家に預けられ、西洋文化に触れる。 1871年、外国との政治的絆の強化、西洋文化、近代化を視察する目的で明治政府が派遣した岩倉使節団に加わる5名の女子留学生の一員に選ばれた。この時、捨松の母がわが子を一度「捨てるが、帰りを待つ」という思いから名前を改名したといわれる。他の4名の留学生の中には近代日本女子教育の先駆者となる津田梅子も居た。 米国では、コネチカット州、ニューヘイヴンのレオナルド・ベーコン牧師の家でお世話になり、ここで生涯の友、そして後に津田塾大学創設への協力も惜しまなかったアリス・ベーコンと出会う。ニューヨーク州のヴァッサー大学で学び、卒業し学士号を得た。
1882年、11年間過ごしたアメリカから帰国し、1883年、陸軍卿の大山巌と結婚した。社交界へのデビューを果たした捨松は長年の留学で身に着けた西洋マナーや言語力を活かし、「鹿鳴館の花」と呼ばれた。 社交界で活躍する傍ら、津田梅子と共に女子英学塾(今の津田塾)を設立する等 近代日本女子教育の為に力を注いだ。 1919年、スペイン風邪にかかり、生涯を終えた。
出典:「鹿鳴館の貴婦人 大山捨松」久野明子・著
久野明子
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