市民協会ニューヨーク支部は,1944年6月に,当市の日系人によって組織された超党派的団体組織で,全米市民協会の一翼をなすものであり,同会の東部協議会のメンバーでもある。同会本部の活動方針に基づいて活動する傍ら,いろいろな地域的活動も行なってきた。 支部が最も力を注いだのは,「一世の帰化権獲得運動」である。同運動は,在米同胞史上,最も粘り強く長年に亘って続けられてきたもので,30年代ようやくその地盤を固めた全米市民協会が,この問題に積極的に動き出した。この運動は戦時中も中断されることなく続けられ,戦後,日系兵士の勲功が喧伝されるようになり,また,在米一世が示した戦時中の忠誠の事実が立証されるにおよび,立法運動に一層の拍車がかかった。同会本部は市民協会反差委員会を設置,立法に向けて議会に働きかけた結果,いくつかの東洋人への帰化権付与の法案が相次いで上程された。同会はウォルター案(後にマッカラン=ウォルター案)を支持,上下両院通過後,トルーマン大統領の反民主的,反米的であるという理由での指名拒否にあったが,議会はそれを乗り越えて再通過,52年12月26日発行された。それに伴ない支部は,法案の内容を一般に知らせるために教育的,啓蒙的活動も積極的に行った。 53年2月,同会東部地区大会において,「帰化権祝賀晩餐会」をホテル・マカルビンで,紐育日系人会と共同開催した。 同会は,超党派であり,党派的政治活動には携わらないが,日系市民としての権利を擁護し,人種的差別と戦うための広義の政治的活動を積極的に行ってきた。44年の市長選挙の際や,52年の大統領選挙の際には,主要政党の代表者によるフォーラムを開催し,同時に,新市民となった一世に選挙の知識を広める活動も行った。 また,民権擁護の活動では,52年,ニューヨーク新聞従業員組合の執行委員会が,今後「ジャップ」という字句を新聞紙上で使用することに反対するという決議案を可決したが,これも,同会支部が佐々木正介氏が起こした抗議運動に協力したことが大きかった。同会は日系人だけでなく,広く人種間差別の問題に取り組んでいる。 (ニューヨーク便覧より)