貴田愛作:新聞記者、歴史家、ニューヨーク日系人イベントの記録者

1905年6月10日、福岡県に生まれた貴田氏は青山学院英語師範学校を卒業後、30年に渡米、オハイオ州のオベリン神学校に入学したが、あと一つ論文を提出すれば修士号を取得できるところまできて、牧師の道を断念、32年ニューヨークへ出た。もともとの潔癖な人柄に加え、社会的不公正に敏感な所があった氏は、米政府OSS (OFFICE OF STRATEGIC SERVICE戦絡事務局)日系部隊に参加、インドに派遣され、終戦を中国雲南省で迎えた。戦後、長年の夢であった日系社会や日本の民主化実現のため新聞発行という道を歩き始めた。

1945年11月15日「北米新報」が創刊。株主第一号としてこの新聞との関わりが始まり52年経営者芳賀武氏の帰国に伴ない、貴田氏が責任者となった。その頃多くの知人友人が帰国し、華々しく活躍するのを横目に、一人新聞を引き受け黙々と発行し続けた。そうした氏に神はまたとない伴侶を授けた。58年、同志社大学卒業の才媛恵美さんと結婚。63年、「ニューヨーク日米新聞」と改名、93年7月1日までの48年間、文字通り二人三脚で、週刊日英紙として日系社会の動きを記録し続け、コミュニティーの情報紙であり続けた。

94年11月、貴田氏より、この日系社会にとって貴重な記録である日米新聞の創刊号から最終号までが、日系人会に寄贈された。東京経済大学の田村紀雄教授により北米新報(1945-1952)が8冊の年毎の縮小版とされて、今年7月送られてきた。これは日系人会で閲覧できる。又、これをもとにして、「ニューヨーク日米新間重要紙面縮刷版」が五月書房より出版され、今後、同数授が貴田氏のドネーションと東京経済大学資金とによって、全新聞をマイクロ化する話が進んでいる。

終戦直後、貴田氏はその社説で、日本への故援団体店成が急務であるとアピール、1946年の「ニューョーク日本救援会」発足の引き金となった。彼も委員の一人であった。これが後に現地日本人/日系人の相互扶山と福祉増進、日米親善を目的とする「ニューヨーク日系人会」に改組、現在に至る。貴田氏は発足時より理事を務め会の発展に尽くした。78年、これらの業績に対して、勲5等瑞宝章を授与された。

Subject:
Kida, Isaku
Year:
1905-1996
Media Type:
PDF:
office-of-strategic-services