1941年12月7日、日本が真珠湾を攻撃した日、ニューヨーク市のフィオレロ・ラガーディア市長は、日本人の処遇が確定するまで、日系市民全員に自宅待機を命じた。FBIなどの米政府機関は、日系人を「敵国人」として検挙を開始した。真珠湾攻撃時、米国市民である二世を含む2500人から3000人の日系人がニューヨーク市に居住していたが、1942年6月には、わずか1750人に減少した。 抑留者は、米国市民である自分を合法的に拘束できないことを知り、司法長官に手紙を書いた。しかし、彼が受け取ったのは「ニューヨークから出て行け」、「さもなければ投獄する」という命令だった。 イタリアからの移民を両親に持つラガーディア市長は、日系人を全く信用できないとみなしていた。第二次世界大戦の終結時、同市長は日本に対する勝利を祝い、息子を失った米人家族らにお悔やみの言葉を送った。著者は、戦争中に一人息子をヨーロッパで亡くした日系人の母親の手紙を引用して締めくくっている。
ヨシダ・タカシ
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