1871年から 1873まで、初代在米国臨時代理大使を務める。
父は鹿児島藩士。藩校造士館、藩洋学校開成所に学ぶ。1865年(慶応元)藩の留学生として英国に留学。
米国を経て1868年(明治元)帰国後、新政府において徴士、外国官権判事、公議所議長心得、制度寮副総裁心得などをつとめる。一時離職し郷里に戻るが、再び出仕。1871年から 1873まで、初代在米国臨時代理大使を務め、米国在勤後、明六社を設立するなど、欧米思想の啓蒙に尽力。8年商法講習所設立に参画。以後駐清公使、外務大輔、駐英公使、参事院議官兼文部省御用掛等を歴任。第一次伊藤、黒田各内閣の文相となる。
岩倉使節団とグラント大統領との会談の手配など、岩倉使節団の渡航を支援した。ユニバーシティ・カレッジ・ロンドンで教育を受けた森は、西洋の教育思想に興味を持ち、特に、言語学者ウィリアム・ドワイト・ホイットニーに、英語を日本の国語にする可能性について手紙を書いたが、この試みは失敗に終わった。彼は文部大臣として日本の教育制度に西洋中心主義的な変更を加え、彼の名をとって「森改革」と名付けられた。
1989年、憲法発布当日、国粋主義者に襲われ翌日死去。
*明六社は、日本最初の学術団体。1873年(明治六年)森有礼を中心に西村茂樹、西周、中村正直、加藤弘之、箕作秋坪、同麟祥、福沢諭吉らが設立。機関誌「明六雑誌」を発行、啓蒙的思想の普及に重要ね役割を果たした。明治八年解散。
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