1938年 6月
ニューヨーク市美術協会の展覧会
世界恐慌のニューヨークでは、政府が主導したWPAの他にも、市が主催する美術展覧会(Municipal Art Exhibition)も開かれました。 これは、美術作品の展示を通して街を活性化させ、芸術に対する興味関心と購買意欲を促進させることを目的にした市の文化事業でした。そこでまず1934年2月にロック・フェラー・センターで市民美術展(First Municipal Art Exhibition)が開かれます。ところが、会場となったロック・フェラー・センターでは、この展覧会が開催される直前にメキシコ人画家ディエゴ・リベラ(Diego Rivera)の壁画《十字路に立つ人(Man, at the Crossroads)》が破壊されるという出来事が起こりました。壁画が破壊された背景には、そこに共産主義者が描かれていたことが原因だとされており、これに抗議した画家たちは、美術委員会(Artists’ Committee of Action)を組織することとムニシパル・アート・ギャラリーを開設することを市長に提案しました。
そして1934年6月に美術、舞台、音楽といった芸術の普及事業としてニューヨーク市美術委員会(New York Municipal Art Committee)が発足。1935年からテンポラリー・ギャラリーで、ニューヨーク市美術委員会主催の展覧会を開催していいきます。三週間ごとに展示を入れ替える方針で始まった同展覧会は、当初、出品資格が、アメリカの市民権を持つ者に限られていました。しかし、国吉康雄の出品を巡り市民権が無い芸術家も出品できることに条項が改正されました。
そして1938年6月に開かれたニューヨーク市民美術委員会の第31回展には、日本人芸術家がグループで参加しました。この展覧会は、現時点では出品目録が確認されていないため、展示作品の詳細は不明ですが、当時の新聞記事から同展には、石垣栄太郎、門脇ロイ、国吉康雄、宮本要、永井トーマス、 中溝不二、鈴木盛、保忠蔵、亘理武夫の少なくとも9名16点の作品が展示されたことがわかります。
同展覧会について、『タイムズ』はこう述べています。
「グループの9名の画家は全員日本生まれであり、16点の作品のうち、トーマス永井の二点の水彩画の風景は伝統的な日本の芸術を暗示している。門脇ロイの《ボタニック・ガーデン》は唯一日本の主題であり、中溝不二の《チューダー・シティ―》は夏の夜の屋上で涼むアッパー・イースト・サイドの貧しい人々を描いた。昨日、展覧会で中溝不二は日本の画は売れないので、アメリカの技法でニューヨーク・シーンを描いたと述べていた。この展覧会で最も日本風でない作品は石垣栄太郎の《逃亡》と《戦争の犠牲者》で、 これらは日中戦争に巻き込まれた中国の人々を同情的に描いている」
(“Japanese Artists Have City Exhibit: Nine Show Works Here Slight Traditional Influence Seen,” New York Times, June 23, 1938)
また 『ヘラルド・トリビューン』 にはこう記されています。
「いくつかの作品は明らかに反戦を描いている。石垣栄太郎のドラマチックな《逃亡》や《戦争の犠牲者》は日本の爆撃や略奪かを題材にしている。他の作品はより叙情的な傾向に描いている。過去と個人的なつながりを想像的に構成させた、鈴木盛の《追憶》、やさしく気まぐれな、保忠蔵の《ガスタンクと花々》、国吉康雄は巧妙な色の《横たわる人体》を出品している。そして門脇ロイ、宮本要、永井トーマス、中溝不二、亘理武夫、山崎近道の作品がある」
(“Notes and Comment on Events in Art: Municipal Show,” New York Herald Tribune, June 26, 1938).
ニューヨーク市民美術展覧会の第31回展は、日本人芸術家が日中戦争の開戦の前に申し込んでいたものが、1938年にようやく順番が回ってきたものでした。そのため当初、出品を予定していた芸術家の中には、日中戦争を巡る情勢悪化を理由に出品を取りやめる者もいました。しかし、それでも同展覧会に出品した芸術家は、すべてアメリカの市民権が無い一世の日本人だったのです。彼らはアメリカで生活する市民権が無い日本人として難しい立場にありながらも、ニューヨーク市主催の展覧会に反戦をテーマにした絵や叙情的なアメリカン・シーンの作品を展示することで、世界情勢に翻弄される自身の危うく不安定な立場を訴えたのでしょう。