荒木紀男は、1885 年(明治1 8 年) 5 月、長野県飯山で飯山藩士第一家老の家の長男として誕生。1 5 歳の時上京、東京銀座高山紀斎歯科診療所の書生となる。1903年東京歯科医学院に入学するが、1904 年(明治3 7 年)日露戦争勃発、歯学の道を志すため、米国留学を決意。1905 年ハワイ経由で米国サンフランシスコに到着。南カリフォルニア大学教授のタウンゼント氏宅に滞在中、高溶ポーセレンの研究者と出会い、指導受ける。その後、カリフォルニアでの日系人に対する差別をさけ、医学者で細菌学者の奥村鶴吉を頼りにニューヨークに移る。奥村はペンシルバニア大学医学部で学び、ロックフェラー研究所の野口英世、歯科医の岡田満と親交があった。
荒木は、ニューヨークで最大規模の歯科技工所であったストウ&エディ社 へ入社。奥村の紹介で、野口英世のアパートの一室を借りる。野口と荒木は、レキシントンアヴェニューのアパートで、野口がメリー婦人と結婚し、マンハッタンへ引っ越すまでの三年間、共同生活を送る。この頃、奥村鶴吉、野口英世、岡田満、等に進路を相談したところ、歯科医への道は時間と金がかかると指摘され、歯科技工の道を目指す。
その後10年間、ストウ&エディ社のポーセレン部門で働き、副所長まで勤めた後、退職し、1915 年(大正4 年)ARAKI DENTAL LABORATORY 開設。研究所は順調に功績をあげ、荒木は、ニューヨークで、渡米してくる日本人との交流を深めていった。そして、ニューヨーク国際労働会議に参加するため、渡米しきた松風嘉定に出会い、荒木は、松風工業株式会社の社長、嘉定から日本での最初の人工陶歯製造の為の研究を委嘱される。松風工業株式会社は、京都で輸出用陶磁器、窯業メーカーで、碍子や化学磁器を製造している老舗であった。
1918 年(大正7 年12 月)妻キャサリンを連れて帰国。京都の松風工業株式会社敷地内にある、松風陶歯研究所の技術長として入社し、1922年、松風陶歯製造株式会社設立に貢献。1924 年(大正1 3 年)ニッケルピン付き陶歯発表し、1937 年(昭和1 2 年)松風バイオ陶歯発売、翌年には、東京銀座に松風サロン開設、1945 年(昭和20年)松風日本初のレジン歯の製造に成功に関与する。また、慶応義塾大学病院眼科の桑原安治助教授の依頼を受け、朝鮮戦争で負傷した米兵のために、アクリリックレジン製の義眼の作製にもあたる。1976年、89歳で、逝去。
荒木照夫、宮子夫妻