更なるストーリー
クエーカーの教育者たちは、女性教育の発展だけにとどまらず、日本における人道的活動にも深く関わっていました。コロンビア大学を卒業し、東京にある普連土学園の理事長や校長を務めたエスター・ビドル・ローズもその一人です。ローズは、「アジア救援公認団体」(LARA(Licensed Agencies for Relief in Asia))の委員として、第二次世界大戦終了後、悲惨な状況に直面した数千万人の日本人のために、緊急食料、衣類、物資の配布を調整する役割やアメリカン・フレンズ奉仕団(AFSC)の日本支部長として国際学生セミナーやワークキャンプの開催、平和講演シリーズの開催などの主宰者としての役割を担っていました。
エスター・B・ローズは、新渡戸稲造やエルキントン夫妻と親交のあったフィラデルフィアの由緒ある クエーカーの家系に生まれました。彼らに啓発され、1917年に普連土女学校の教師として来日、1年後学業を達成するため一時帰国し、再び1921年に来日して教鞭をとる傍ら生徒指導に当たり、戦前は教頭あるいは副校長として校長を補佐しておりました。
1923年、関東大震災が発生し、アナ・ハーツホルンが津田塾大学の資金集めのために米国に帰国した際、ローズは東京で女性のクエーカーの一人として日本の基督友会奉仕団に加わり救援活動を行っており、被災者のための様々な救援活動に携わりました。
数年後、ローズは米国に戻り、ニューヨークのコロンビア大学インターナショナル・ハウスに滞在しつつ、教育大学院で宗務教育学の修士号を取得し、1927年に同大学を卒業しました。妹のキャロラインも同大学教育大学院で修士号を取得し、教員として1965年まで教壇に立ちました。弟のジョナサンは、著名な脳外科医となり、ペンシルベニア大学の副学長まで昇進し、妹のエスターのために東京の普連土学園の活動資金を援助しました。
ローズは人生の大半を日本で過ごし、数十年にわたって女学生の指導に努めました。1940年まで日本とアメリカの間を往復していましたが、第二次世界大戦の影響により訪日ができなくなりました。その後間もなく、ローズは「アメリカン・フレンズ奉仕団」(AFSC)の民間公共サービス部門で働き始め、1942年に外交サービス部に異動し、カリフォルニア州パサデナ市にあるAFSC南カリフォルニア事務所に派遣されました。そこで、ローズは、日本語と日本文化に関する知識を活かし収容されていた日系米国人を支援しました。
1942年5月、AFSCの要請により、WRAは、「全米日系米国人学生転住審議会」(NJASRC)の設立を許可し、収容によって大学や高校の教育を中断された2,500人以上の日系米国人学生の再定住に取り組み始めました。ローズは、学生が通える学校の確認、成績証明書の取得、推薦状や入学願書の作成、政府の許可証の取得、奨学金の申請などの業務を支援しました。1945年の報告書によれば、この期間に全米で3,200人の日系人学生が625校の学校に転校しました。
終戦後、ローズは「アジア救援公認団体」(LARA)の3人の委員の一人に選出されました。LARAは、日本と韓国で活動していた北米の慈善・宗教団体(当初は11団体で最終的に14団体)による民間の救援活動を代表し、統括機関として、1946年4月に組織されました(LARAはニューヨークに本部を置き、偶然にも同じクエーカーが会長を務めていました)。中でも中心的な役割を担ったのは、教会世界奉仕団、AFSC、戦時救済奉仕団でした。1946年6月に日本に戻ったローズは、「横浜に近づくにつれ、破壊が顕著になり、街は実質的に真っ平らになったようだ。崖の上に建物の廃墟が見えたが、それは1923年の関東大震災の後の瓦礫の山があった光景によく似ていた。」と述べました。
ララ物資は、GHQ(連合国軍総司令部)により提供された免税措置や優先順位を踏まえ、福祉物資の大量輸送を行う唯一の米国機関でした。救援物資の配布は、日本の福祉機関を通じて、出生、宗教、政治的属性に関係なく、必要性に基づき行われ、受益者の費用負担はありませんでした。1946年11月から1952年6月まで、ララ物資は3,300万ポンドの食料、衣類、靴、綿、石鹸、医薬品、また、2,000頭以上の山羊、45頭の乳牛を配布し、合計458隻の船舶で輸送されました。これらの物資の約20%は、ニューヨークの日系米国人をはじめ、北米及び南米の日本人や日系人からの寄付でした。
ララ物資の点検横浜の倉庫で、普連土学園中学校・高等学校
1945年9月、献身的なニューヨークの日系米国人グループは、日本への救援物資を送る準備を始めました。しかし、日本での救援の必要性が高いにもかかわらず、未だ多くの一世移住者を「敵性国民」とみなす米国政府の反対により、翌年まで直接的な資金援助ができない状態でした。1946年中旬、ようやく活動開始の許可を得たグループは、「日本救援紐育委員会」の名称で正式に組織化されました。同委員会は、LARAと協力することを認められた機関の一つに指定され、フィラデルフィアの米国フレンズ奉仕団を通じて支援を開始しました。1946年から1948年にかけて、数十万ドルの資金調達に成功し、食料品や衣類を始め大量の物資を日本へ送りました。また、同委員会は、名称を変更し、現在も活動を続けている「ニューヨーク日系人会」(JAANY)の母体となりました。
湯浅 八郎(会長)
赤松 三郎(副会長)
松本 亨(書記)
芳賀 武
川俣 義一
此川 清一
岡田 二男
清水 宗次郎
山口 三之助
安井 關治
校長交代1959年10月3日、普連土学園中学校・高等学校
一番町15番地校舎前庭にて、前列中央に津田梅子、1901年、津田塾大学津田梅子資料室
1950年から1960年まで、ローズは、明仁皇太子殿下(当時)の家庭教師という重責を担いました。1977年、皇太子殿下が美智子妃殿下(当時)と共にフィラデルフィアを御訪問された際、ローズと最初の家庭教師であったケネット・スクエア地区出身のエリザベス・グレイ・ヴァイニングとの再会を果たしました。ヴァイニングは1946年から1950年まで皇太子殿下の家庭教師を務め、その経験をもとに『皇太子の窓』という題名の書籍を執筆しました。また、ヴァイニングの秘書であった高橋タネは、恵泉女学園で講師を務めており、ローズが恵泉女学園創立者で親交のあった河井道に働きかけ、高橋を秘書に推薦しました。
1952年、ローズは、裕仁天皇陛下より勲四等瑞宝章、1960年の退官時には勲三等瑞宝章が授与されました。また、日本赤十字社から最高位の表彰が授与され、東京都から都の象徴の鍵も贈呈されました。