略歴

ヒュー・ボートン (1903-1995)は、コロンビア大学の教授かつクエーカーであり、政府や学界での長い経歴において、様々な立場で日本に関する業務に取り組みました。1930年代、「米国フレンズ奉仕団」の宣教師として初めて日本を訪れた際、ボートンは沢田節蔵在ニューヨーク日本総領事(大使)から、日本に到着したら「よく聞き、よく学ぶ」ように助言を受け、彼はその言葉を胸に刻み、第二次世界大戦終戦前後の対日政策の形成に寄与した最も影響力のある米国人学者の一人となりました。

ヒュー・ボートン (1903-1995)

ゴードン・ボールズ (1904-1991)はクエーカーで、1946年の米国教育使節団の一一員でした。ボウズは日本で生まれ、東京で育ち、1935年にハーバード大学で人類学の博士号を取得しました。彼は、日本に派遣される前の戦前から、後の国務省の政策の基礎となる提案書の作成に貢献し、使節団では、数少ない日本通のアメリカ人メンバーとして重要な役割を担い、占領後、シラキュース大学人類学教授となりました。

ゴードン・ボールズ (1904-1991)

George S. Counts (1889-1974)は、コロンビア大学教授で、1946年の米国教育使節団の一員として日本に滞在しました。教育理論家として影響力を持ち、進歩的教育運動の初期の提唱者でした。また、自由党の設立に貢献し、1952年にはニューヨーク州選出の上院議員に立候補しました。

ジョージ・カウンツ (1889-1974)

メリー・エルキントン (1857-1938)は、新渡戸稲造の妻であり、アメリカのクエーカーでした。メリーをはじめとするエルキントン一家は、19世紀後半からクエーカーのネットワークを介して訪米したやってきた多くの日本人留学生の熱心な支援者でした。新渡戸とメリーは、河合道や星野愛といった女性を含む米国留学を支援し、多くの日本人留学生はクエーカー・コミュニティから奨学金を得ていました。

メリー・エルキントン (1857-1938)

バージニア・ギルダースリーブ (1877-1965)は、ニューヨークの学者で、バーナードの学長であり、国際大学女性連盟の共同設立者です。1945年、国際連合設立のきっかけとなったサンフランシスコ国連国際機関会議に、米国から唯一の女性代表として参加し、翌年には日本に派遣された米国教育使節団にも参加しました。

バージニア・ギルダースリーブ (1877-1965)

アナ・ハーツホン (1860-1957)は、フィラデルフィアの有力なクエーカーの一族で、アメリカの教育者、作家でした。津田梅子とともに津田塾大学を設立し、1902年から1940年まで同校で教育者として活躍しました。1923年の関東大震災で校舎が倒壊した後、資金集めのために全米を巡り、再建に貢献しました。

アナ・ハーツホン (1860-1957)

星野愛 (1884-1972)は、ニューヨークの大学院で学び、津田塾大学の学長を務め、戦後の女子高等教育機関を大学に貢献した日本の著名な学者です。星野は、津田塾大学を卒業し、1906年にクエーカーの援助を受けて渡米した後、関東大震災の復興や第二次世界大戦の不安の中で、同校の校長を務めました。

星野愛 (1884-1972)

河井道 (1877-1953)は、恵泉女学園(現在の恵泉女学園大学)やYWCA(Young Women's Christian Association)日本支部を設立した教育者であり国際人です。1904年、ペンシルベニア州のブリンマー大学を卒業後、帰国し、津田塾大学(旧女子英学塾)で教鞭をとりました。その後、日本YWCAを共同設立し、初代全国事務局長を務め、1927年には、東京に恵泉女学園を設立し、クエーカーであった当時から重要視していたキリスト教学と国際教養に力を入れました。

河井道 (1877-1953)

前田多門 (1884-1962)は、クエーカーで、ニューヨーク日本文化協会理事、戦後、日本初の文部大臣となった人物です。天皇を道徳教育の中心に据えるなどの改革は、占領軍管理者からは保守的すぎるとみなされていましたが、戦後、連隊教育の廃止や理科教育の強化など、自由主義的な教育改革を提唱し、1946年の米国教育使節団を支援しました。

前田多門 (1884-1962)

南原繁 (1889-1974)は、東京帝国大学総長であり、1946年の米国教育使節団の日本教育者委員会の委員長を務めました。1946年、日本国憲法を審議した参議院議員の一人であり、1947年には教育改革審議会会長に選出され、さらに、1948年には日本政治学会初代会長、1970年には日本学士院理事長を務めました。

南原繁 (1889-1974)

新渡戸稲造 (1862-1933)は、クエーカー、知識人、公人であり、日本文化と国際世界情勢に関する著作で欧米に広く知られています。1885年、外国人女性宣教師 協会の招きでフィラデルフィアを訪れた新渡戸は、正式にクエーカーとなり、1887年には東京に普連土学園を設立するよう進言しました。また、津田梅子の津田塾大学設立を支援し、後に東京女子大学を設立し、初代学長を務めました。台湾では植民地行政を担当し、その後、国際連盟の日本代表団を率い、その後事務次長となりました。

新渡戸稲造 (1862-1933)

ミス・ローズ、普連土学園中学校・高等学校 (1896-1979)は、米国の教育者、人道主義者で、フィラデルフィアのクエーカーの家系に生まれ、1917年から1940年まで、東京の普連土女学校で教鞭を執りました。第二次世界大戦後は、同校に戻り校長を務めるとともに、数千万人の日本人に物資を提供する救援組織「アジア救援公認団体(LARA)」の委員となりました。1950年から1960年にかけては、皇太子殿下をはじめとする皇族方の家庭教師を勤めました。

エスター・B・ローズ (1896-1979)

ジョージ・ストッダード (1897-1981)は、「ストッダード・ミッション」として知られる1946年の米国教育使節団の団長で、当時ストッダードはニューヨーク州教育総監を務めていました。その他、ニューヨーク大学副学長、イリノイ大学学長、ロングアイランド大学学長、州立大学の前身であるニューヨーク州立大学学長などを歴任しています。

ジョージ・ストッダード (1897-1981)

津田梅子 (1864-1929)は、日本における女性教育のパイオニアです。6歳の時に日本人女性として初めて米国に留学し、その後フィラデルフィアのブリンマー大学、オックスフォードのセント・ヒルダズ大学で学びました。帰国後、女性教育の啓発に努め、東京に津田塾大学(当初の名称は 

津田梅子 (1864-1929)

フランク・ヴァンダリップ (1864-1937)は、ニューヨーク・ナショナルシティ銀行(シティバンク)の頭取、米国連邦準備制度の設計者の一人であり、ジャパン・ソサエティの会長でした。妻のナルシッサとともに、日米の文化外交や国際平和運動にも積極的に取り組みました。

フランク・ヴァンダリップ (1864-1937)

ナルシッサ・コックス・ヴァンダーリップ (1879-1966)は、ニューヨークの参政権論者であり、日本のフェミニスト運動の支持者でした。1920年に日本を訪れた際、フェミニズムの推進には国際的な連帯が必要であると確信し、日本の女性運動に個人的に関わるようになりました。「女子英学塾臨時救済委員会」のニューヨーク支部長を務め、大学再建のための資金集めを成功させました。

ナルシッサ・コックス・ヴァンダーリップ (1879-1966)