村山萬幾雄博士は鎌状赤血球貧血症の研究でよく知られている生化学者である。彼はサンフランシスコで生まれたが、父親の死後、4歳で親戚と一緒に暮らすために日本へ帰国した。14歳でサンフランシスコに戻り、カリフォルニア大学バークレー校で生化学と物理学を学んだ。 第二次世界大戦の勃発とそれに続く日系アメリカ人の西海岸からの大量強制退去に伴い、村山の家族はアイダホのミニドカにある強制収容所へ送られた。しかし、彼は物理学者としてシカゴでの仕事に誘われた。それは後にマンハッタン計画として知られる事になる仕事であった。しかし、日本人の血を引くことがわかると話は無くなってしまった。彼は雇用のための研究を変更し、ミシガン小児病院で血液化学者として仕事に就くことができた。1953年にはミシガン大学で免疫科学で博士号を取得して、カリフォルニア工科大学とペンシルベニア大学で博士研究員となった。 1958年10月、メリーランド州ベセスダにある国立衛生研究所のスタッフとなり、残りの研究人生を捧げた。そこで鎌状赤血球貧血症に対する画期的な研究に取り組むこととなった。ミシガン時代にこの病気に苦しむ小児患者について研究していたため、この病気は彼が非常に関心を持っていたものであった。6年間かけて、自宅の地下室で、原子を表現するために約70,000本のネジを使用した3フィート(約91センチメートル)もの高さのある有名なヘモグロビン分子の模型を作成した。この模型は鎌状赤血球貧血症を理解するのに役立ち、病気に対する画期的な研究と治療法の発展へとつながった。国立衛生研究所所内報の記事によると、彼の研究によって科学者たちは分子基盤を簡明に理解することができ、結果として病気そのものを深く理解することができて治療法の開発へとつながるものであったと伝えている。彼は高い評価と名声を得て、1969年の鎌状赤血球貧血症協会賞と1972年のマーティン・ルーサー・キングジュニア医学業績賞を受賞した。その後、1980年代まで同研究所で研究を続けた。